運命が導くならば、
僕らは出会い、恋をする。
「それ程の力があるのに式神を持たない術師なんて、あなた位よ」
女はそう言って、だるそうに肩肘をついた。
流れる黒髪。墜ちそうな闇色の着物には、純白の百合が咲いている。
この女がいるだけで、室内はまるで、現実とは違う異空間のようだ。
魔女と呼ばれているその人は、俺の呪術の師匠である。
ちなみに、気だるげなのは二日酔いの為らしい。
「あなたの段階なら、五・六体は式神憑けてるのが普通よ。持ったらいいじゃない。箔も付くわよ」
噂によると、この魔女は百体の式神を従えているという。見たことはないのだが。
「俺は今のままで十分だ。つるむのは好きじゃねぇ」
眉を顰めてみせると、つるむなんてものじゃないわよ、と魔女は面白そうに笑った。
「もっとも、あなたは式神の降憑術なんて出来ないかしらね」
そう言って肘掛の裏から一本の巻物を抜き出すと、一端を白い指で抑え床にすいと転がした。
広がった巻物の中は透かしの入った和紙で、そこには流麗な文字で呪文が連なっているようだ。
「これは、降憑術の呪文。巻物一本分、まず暗誦しなさい。これが基本よ」
「あぁ、無理だ無理」
やりたくない。多分、途中で飽きる。
「ろくに見もしないでよく言うわねぇ・・そうね、そもそもあなたは力技系だものね。
呪文を使わずに刀で魔物を倒すことが出来る術師なんて、他にいないわ」
鳶色の巻紙を摘み上げ、魔女は俺に向けて妖艶に微笑んだ。
「・・力技で式神を降ろす方法もあるのよ?」
「へえ。どんなだ」
「難しいわよ。まず、精霊と地上で出会わなければならないわ」
精霊というものは、普段は天界に住まっているらしい。地に降りる時は、姿を消している。
術によって具現化することができるが、どこにいるとも知れない精霊を具現化するなど不可能である。
「会えるわけねえだろ」
「有り得ないわね。しかも、それはある特殊な状況下でなければならない」
「どう考えても無理じゃねえか」
「そう、無理なのよ」
魔女はにっこり微笑んだ。
「運命が、導かないと」
ー運命?
何故そんな事を俺に、と問いかけようとしたところで、魔女が手を打った。
「はい、報告ご苦労様。今日はもう帰っていいわ」
ひらひらと手を振る魔女は、もう俺と話をする気はないらしい。
この女が、孤児として寺で修行していた俺を引き取ったのが、10年前。
長い付き合いになるのだが、年を取った印象もないし、まるきり分からない人間である。
・・人間じゃないのかもしれない。
女の元を出て自分の寺を持つようになってからは、近況報告を月に一度している。
「じゃあ一月後に。帰る」
ため息をついて立ち上がると、魔女はついでのように言った。
「近いうちに、またここに来ることになるわよ。黒鋼」
魔女の屋敷から自分の寺まで、馬を走らせても一日半はかかる。
故に、魔女の元に行くには泊り掛けだ。
日も暮れてきて、差し掛かった村で俺は宿を借りることにした。
普段は法衣などいい加減に着ているのだが、どこかで宿を借りるつもりの時は、きちんとした正装で行く
ことにしている。坊主であると分かれば、大抵どこでも宿を提供してくれるのものだ。
一番大きな家の扉を叩く。
大きな家といっても、大した大きさではない。小さな、貧しい村だ。
叩いたものの、返事がなかった。
ー何かが、おかしい。
暗くなったてきたとはいえ、村内には出歩いている者が一人もいない。
夕闇に飲まれていてよくは見えないが、周囲を見回すと、村全体に得体の知れない違和感を感じた。
「宿を借りてぇんだが」
声を掛けてみると、しばらくして引き戸が小さく開いた。
顔を覗かせたのは老人で、俺を見るなりこれはお坊様申し訳ありません、と声を上げ、
戸はすぐに大きく開けられた。
家の中には何十人も村人が集まっているのが見えた。どうやらここで今、村会合が開かれているらしい。
改めて宿を頼むと、老人はすぐに快諾し、その代わりどうか話を聞いて下さいませ、と
俺に座布団を勧めた。
話によるとこの村は今、魔物らしきものに悩まされているらしい。
村の裏には桜山があり、例年今頃、山全体それは美しい薄紅色に染まるという。
しかし、今年は枯れ木のまま、芽吹きさえしない。
裏山ほどではないが、村内も作物や草花の芽吹きが少ない。
原因ははっきりしないが、このような異常な状況は、やはり魔物の仕業に違いないと思われる。
多分、桜山に魔物が巣食っているのではないか。
今行われていた会合で、そういう結論に達したらしい。
改めて外に出て回りの木々などをよく見てみると、確かに春になっているのに芽吹いていないものが
多い。さっき感じた違和感はそれだったのだ。
最近は皆魔物の存在を恐がり、外を出歩くのも憚られているということだ。
これは霊験あらたかなお坊様を呼び、魔物を討伐して頂くしかない、と話していた所へ
俺が尋ねて来たという訳だ。
「きっと運命のお導きです。どうかお坊様、桜山に巣食う魔物を退治して頂けないでしょうか」
ー運命が導かないと。
確か魔女がさっき、そんなことを言っていた。
作物が芽吹かないのでは、この貧しい村はますます貧しくなり、餓えに苦しむに違いない。
宿も貸してもらうのだし、仕方ないか。斬魔刀も、常に携帯している。
承諾してやると、集まっていた村人達は喜び、食物もそうないだろうのに精一杯のもてなしをしてくれた。
腹が減っていたので出されたものを全て食べてしまったこともあり、これはもうどうしても退治するしかない。
今まで多くの魔物と戦ってきたが、手強いと言われているものが相手でも、
倒すのにそう苦労したことはない。
今回もさっさと征伐してしまおうと、俺は裏山へ出向いた。
桜山と呼ばれるそれは、近づくと確かに、この季節にも拘わらず山全体が枯れ木に覆われていた。
物音一つしない。生き物の気配がまるでないのだ。
この山に住んでいた動物や虫は、全て魔物の力により死んでしまったのだろう。
推測するに、魔物はこの山全体の生気を吸い取り、力を蓄えているのだ。
小山とはいえ、山一つである。相当な力を持った魔物でなければ、成し得ない事だ。
それに更に力を蓄えているとなれば・・かなり大規模な、悪しき事を企んでいるのだろう。
ーひょっとしたら、俺の手に負えないくらいの魔物かもしれない。
面白えじゃねぇか、と独り言ちて、死に包まれる山へと足を踏み入れた。
今夜は満月。
静かな月明かりの中、沈黙している木々の間を縫っていると、まるで時が止まっているように見えた。
具現化の術を行えば、静かに見えるこの山が本当は今どのような状況にあるのか、そしてどんな魔物が
巣食っているのかが目に見えるようになる。
出て来い。
一つ息を吸い込み、具現化の印を結んだ。
「っ!」
突然、耳を劈く音と共に、呼吸が出来ないほどの強風に体を叩きつけられた。一歩足が取られる。
山全体が渦巻く暗雲に覆われ、地の底から響くような雷鳴が轟く。
密度の濃い暗闇を、眼を焼くような稲光が照らした。
山は、悲鳴を上げていた。
力が。
体が振動するほどの、凄まじく強力な、禍禍しい魔力が降り注ぐ。
思わず身震いをした。
ここまでの魔物は、初めてだ。格が違う。
ー俺の手に負えるか?
上空から感じる気配に、刀を構え天を仰いだ。
轟きの合間に、空間を裂くような咆哮が聞こえた。一瞬、暗雲の中上空高く、何かの一部が垣間見えた。
闇色の鱗。あれはー大蛇か?どす黒い巨大な蛇が闇の中うねっているようだ。あれが、ここに巣食う魔物だ。
ー一体じゃねぇ。
もう一つ、気配を感じた。しかしそれは、禍禍しさなど欠片もない、清浄な・・何だ?
その時、二つの気配が縺れるようになって、黒雲の下へ流れ出た。
目映い稲光が照らし出す。
ー銀色の竜
神々しいまでの月色の竜が、闇色の大蛇を封じ込めるように絡み付いていた。
その凄まじい光景に圧倒され、思わず息を呑んだ。
絶え間なく閃光を放つ稲妻に、二体の偉大なものが浮かび上がり、また消える。
大蛇はもう一度うめくように嘶き、竜の輝く鱗に牙を立てた。
しかし、勝負はすでについていた。
大蛇は尾の先から徐々に形を失い、闇に溶けていった。
最後に邪悪な気を放つ頭部が、断末魔を上げながら砂のように崩れ、消えてゆきー
消滅すると同時に、ぴたりと。
殴りつけるような風がやみ、暗雲が、まるで波が引くかのように消えていった。
夜空に星が燦燦と瞬きだし、山を、月の光が静かに照らす。
そしてー今までの嵐が夢だったかのように。
再び、山は静寂に包まれた。
知らずと止めていた息を、吐く。
具現化させた世界は全て、消え去ったのだが。一つだけ、残った。
天空に。
晧晧と輝く満月を背景に、銀の光を放つ竜が、まるで幻のように浮いていた。
嵐が夢?それとも、・・今が、夢だろうか。
幽かに、パキリと不思議な音が聞こえた。
その音は共鳴し、次第に大きく、辺り一面に響き渡った。
木々に目を移し、それが何の音なのかが分かった。
沈黙していた桜が、芽吹いている。
静寂の中、無数の桜の木々が一斉に芽吹きだしたのだ。この響きは、その極僅かな音の共鳴だ。
魔物から、開放されたからだ。
目の前の桜の一枝。
硬い蕾がゆっくりと膨らむ。蕾は、さわさわと音を立てて、薄紅色に花開いた。
月の光を反射して、まるで発光しているような、その枝。
周りを見渡すと、
・・山全体が、薄紅色に輝いていた。
無数の薄紅の光の粒が、空へと、登るような。
眩暈がするほどの美しい光景に、再び空を仰ぐと、
銀色の竜が頭を擡げー
竜はそのまま、地へと真っ逆さまに落ちていった。
銀の軌跡を残して、音もなく山の頂き辺りの桜林へと吸い込まれる。
「!」
俺は走り出していた。
あの竜は、巣食っていた魔物を消滅させた。しかしその戦いで傷付いてー。
頂き辺りまで来ると、辺り一面銀色の光に包まれていた。
光の中心、桜の木々の合間から、地に倒れ付す竜の姿が垣間見えた。
銀の鱗、青白く光る角。硝子のような、長い爪。眩いほどの、銀色の竜。そんなものが、今、そこに。
動悸が、早まった。
近づこうと一歩足を踏み出したところで、
突然、目の前が白に染まった。
驚いて瞬き、しばらくして状況を理解した。
無数の桜の・・月の光を吸い込んだその花弁が、一斉に、舞い散ったのだ。
ひらひら、ひらひらと。気が遠くなるほどの数の花弁が、宙を舞っている。
一枚一枚が煌くようなその空間に一瞬時を忘れ、
ふと、竜が消えていることに気が付いた。
竜がいた、その場所に。
銀色の人間が倒れ伏していた。
いや、人間じゃない。こんなに光り輝く人間は、いない。
銀竜の、精霊だ。
さらに高鳴る鼓動を抑え、もう一歩、近付いた。
その時、精霊は細い腕を立て、ふわりと上体を起こした。
銀の髪がさらりと揺れ、銀の衣が流れる。体全体が、仄かに発光している。
竜人の瞳が、静かに開かれた。
銀の睫毛から覗いたのは、宝石のように煌く、蒼の瞳。
辺りが薄紅に染まるほどに一面に舞い散る、月の桜の花弁の中で、その銀色の精霊は、
恐ろしいほど美しかった。
その瞳は俺を捕らえ、精霊は、小さく形のいい唇を開いた。
「見たの?」
硝子を弾くような声。思わず、体が震えてしまいそうな。
「・・おまえ・・さっきの竜の精霊、か?」
竜人は返事をする代わりに静かに微笑み、すいと右の人差し指を俺に向けた。
指の先が、青白く光る。
その光を視界に入れたとたん、目の前がぐらりと歪んだ。
ーまずい。
歪みを振り切ってずかずかと歩み寄り、その華奢な指先を力任せに握ると、精霊は僅かに目を見開いた。
「記憶を消す気か?同じような術を使う奴と、戦ったことがある」
「・・触れないで」
顔は微笑んだままだったけれど。精霊のその声は、強張っていた。
掴んだ手を少し緩めて、ふと、自分の手に銀粉が付いたことに気がついた。
精霊が発光しているのは、体に銀粉を纏っていることによるようだ。
「・・な・・」
よく見ると、精霊の白く透けるような皮膚は、何箇所も大きく裂けていた。
傷口は銀に染まり、そこから同じ色の液体が流れ出ては、銀粉へと変化していく。
粉によって銀に見えた着物は薄青色で、多分その着物の下の皮膚も裂けている。
ーこの銀は、血?
銀粉が、精霊の血であるならば。
この精霊は今、血まみれだ。
「おまえ、大怪我してんじゃ・・っ」
「触れないでって、言ったよね?」
指を掴んだままの俺を、精霊は真っ直ぐ見詰めた。
金色だ。さらさらと銀粉が舞うと、その下には金の髪、金の睫毛が埋もれていた。なんて綺麗なんだろう。
金の睫毛に縁取られた、透けそうな蒼水晶の瞳には、俺が映っていた。
ー離したくねえ。
細い指を握った手に逆に力を込めると、精霊の瞳に、少し非難の色が込められた。
その時、悪寒がした。
「!」
精霊も感じたらしく、同時に夜空を見上げた。
月を背景に黒い靄が蠢き、それは次第に色濃くなってゆく。
大蛇の頭部に形を成したそれは、牙を剥いた。
死んだ大蛇の怨念に、俺が刀を取るより早く、銀の竜人がすいと立ち上がった。
腕を翳す。それが蒼の光に包まれると同時に、銀粉が舞った。
一瞬、その美しい眉が顰められた。
ー血が。
光はみるみる大きくなり、大蛇を飲み込む。動きを封じられた大蛇は、苦しそうな雄叫びを上げた。
精霊の傷口が開き、銀が溢れ出す。
ーその怪我で術を使うなんて、
「おまえ死ぬ気か!」
蒼い光を放つ腕を掴んで引き寄せると、本当は立っているのもやっとだったのだろう、簡単に
俺に倒れこんできた。細い肩。重さなんて、まるきりなかった。
「何をす・・っ」
驚く竜を無視して、刀を構えた。
光が消え自由になった大蛇が、襲い掛かって来る。
斬魔刀で思い切り叩き斬ると、大蛇は悲鳴を上げ、今度こそ完全に消滅していった。
「これで文句ねぇだろ」
刀を鞘に収め腕の中の精霊に目をやると、そいつは焦点の合わない瞳で呆然と俺を見ていた。
銀色の血は、いまだ流れ続けている。大丈夫だろうか。
「魔物倒すにしても、自分まで死んだら意味ねぇだろ」
「・・・・・」
竜人は俯き、聞こえないくらいの小さな声で何かを呟いた。
聞き返そうとした俺の腕をすり抜けた精霊は、こちらに背を向けて桜林の中をふらりと歩んだ。
晧晧と降り注ぐ月に照らされ、一面に積もった花弁が薄紅に淡く光る。
その上に佇む銀色の精霊は、すぐにでも透けて消えてしまいそうだった。
このままー天に帰ってしまうのだろうか。
帰ってしまえば、もう二度と出会うことはないのだろう。
俺は精霊を降ろせないし、例え降ろせても、契約をしていない精霊を選んで降ろすことは出来ない。
明日になれば、今夜のことは全て夢だったのだと、そう思うのかもしれない。
夢ではない。
こいつと出会った、確かな証が欲しい。
『地上で出会わなければならないわ』
地上で、出会った。
『ある特殊な状況でなければならない』
それが、どんな状況を示しているのかは知らないけれど、今はかなり特殊な状況だろう。
こいつを、式神にー。
どうしたら、こいつは俺の式神になるのだろう。
魔女の言葉のあの続きを、聞いておけばよかった。
この後、どうすれば、この精霊は俺のものになるのだろう。
もう一度風が吹けば、こいつはふいに消えてしまう、そんな気がした。
本人に方法を聞いてみるか。
・・こんなこと聞いたら、逃げられるだろうか。もし逃がしたら、もう二度と取り返しがつかない。
聞いて教えてくれるもの、とは思えないが。
「おい」
呼びかけると、銀色の竜人はゆっくりと振り向いた。
銀のカケラが輝く髪に煌き、蒼く澄んだ瞳に反射する。
薄く瀟洒な着物に包まれた、折れそうに華奢な、白い身体。目が眩むほどに、綺麗な精霊。
俺のものになるのなら。
「おまえ、もう、誰かの式神なのか?」
訊ねると、精霊は微笑んだ。桜のような、儚げな微笑み。
「そうだねぇ、式神といえば式神だし・・式神じゃないといえば式神じゃない、かな」
そう言って、空を仰いだ。はぐらかされた気がする。
微風に煽られ、薄蒼の着物がひらりとひらめいた。銀粉が舞う。
今にでも、精霊は透けて消えてしまいそうだった。
きっとおまえは、もうすぐ天に帰ってしまう。
「なら」
俺が一歩前に進むと、精霊は少し体を強張らせて一歩退いた。
「なら俺のになれ」
・・・ストレートに頼んでみた。
小細工は苦手だ。
銀色の竜人は、その美しい蒼の瞳を少し見開いた。
逃げられるかな。
そう思った時、強く風が吹き抜けた。
地面に舞い落ちた月桜の花弁が、一斉に舞い上がった。
視界が、薄紅の光に染まる。眩しくて、目を閉じた。
だめだ、やっぱり、おまえは・・
もう一度目を開けたら、おまえはもうー
「・・くろ、・・がね・・?」
名を呼ばれた。
驚いて目を開けると、無数の花弁の舞う中、竜人は、消えることなく、そこにいた。
「何で俺の名前を」
仄かに光る花弁の絨毯を歩き、精霊は俺の顔を覗き込んだ。
「・・そうなの・・?」
近くで見ると、満月の光に金の睫毛一本一本まで、銀が煌いて美しかった。
思わず、胸が高鳴る。
「ああ、俺は黒鋼だ。それが・・」
「・・そう・・なんだ」
精霊は俺の、頭の天辺からつま先まで見て、それから笑い出した。鈴を弾くような声で。
「な、何だ?人見て笑うなんて、失礼だぞおまえ!」
別に笑われるような格好などしていないつもりだ。
一通り笑った竜人は、涙を拭う仕草をしながら俺を見上げた。
「ごめんねー、なんでもないの。こっちの話ー」
そう言ってくるりと背を向け、黙って再び天を仰いだ。
俺は返事を待っていたけれど、精霊は黙ったままだった。
さっきまで笑っていたのに。
何だか、後姿が。
泣いているように見えて。
しばらく、その触れれば透けそうな、儚げな後姿を眺めていた。
「・・で、どうなんだよ」
俺の問いかけに対し振り向いた精霊は、予想に反して、微笑んでいた。
「約束だもんね・・。オレの名前は、ファイ」
「やくそく?何の話だ」
こいつの言ってることは、さっきからよく分からない。精霊というものは、そういうものなのだろうか。
金の髪をさらさらと揺らして、ファイは俺に歩み寄り、その華奢な白い指でそっと、俺の手を取った。
思わず息を呑むと、ファイはそのまま、
俺の甲に、その小さく柔らかい唇で口付けた。
「これでもう、オレは貴方のもの」
そう言って、ふわりと微笑んだ。
「好きな時に呼んでね。ご主人様」
「な」
本当に、式神になってしまった。
この、世にも綺麗なものが。もう、俺の。
「ご主人様?何でも命令していいよ」
命令なんて。
「や・・あの・・おまえ怪我、大丈夫なのか」
「え?うん・・あ」
ファイは、何か思い至ったようだったが、口をつぐんだ。
「何だよ」
「あ・・大丈夫。休んでいれば、そのうち治るから」
「そうだ、命令がひとつある」
「なあに?」
「おまえ、何であんなにしてまで戦ってたんだよ。もうこんな、怪我するようなことはするな」
「え?」
この綺麗な精霊が、死ぬことも厭わず、傷だらけで戦う姿はもう見たくなかった。
「・・式神は、使い魔だよ?ご主人様を守るのが・・」
「うるせぇ。文句あるのか」
少し恥ずかしかったのでわざと不機嫌な顔をしてみせると、ファイはきょとんとして、笑い出した。
「変なご主人様ー」
「黙れ」
そう言うとファイは黙ったけれど、表情は嬉しそうに微笑んでいた。
ファイの手を取ると、裂けた傷から流れる血は、止まっているようだった。
「痛ぇか?」
「ううん・・大丈夫ー」
嘘付け。こんな大怪我。痛そうな顔、してたくせに。
銀粉が、さらさらと風に流れる。
「手っ取り早く直す方法はないのか?精霊のことはよく分からねえからな。
何かしてやれることはねえのか」
「・・・」
ファイは黙って俺を見て、それからほんの少し頬を赤らめた。
「・・結構です」
そう言って、俺が取っていた白い腕を、さっと引っ込めた。
「何だよ?何かあるのか」
「何でもなーい」
ファイは俺の腕をまたすり抜けて、楽しそうに微笑んだ。
「だから言ったでしょう?すぐにまた、ここに来ることになるって」
そう言って魔女は、極彩色の蝶に彩られた壁絵の前で、けらけらと笑った。
つい昨日来た時とは、部屋の内装ががらりと変わっている。
今日の魔女は、機嫌が良さそうだ。二日酔いではないらしい。
主人の機嫌で部屋の内装も変わるのかもしれない。相変わらず、よく分からない屋敷だ。
結局俺は寺には戻らず、桜山から再び魔女の元に赴いたのである。
「で?何の式神を憑けたのかしら」
魔女は瑠璃色の杯を片手に、長い髪を流して身を乗り出した。まだ俺が何も言葉を発していないのに。
俺が式神を憑ける事など、この女は知っていたのだ。これが、魔女と呼ばれる所以である。
「銀色の竜」
「銀竜?そんなはずわよ。白蛇か何かの間違いじゃなくて?」
「白蛇・・蛇には見えなかったが」
青白く光る角がついていたし、硝子のような長爪の手足もあった。・・何より蛇なんかとは
風格が格段に違うと思う。
「まあいいわ、見れば分かるし。早速お呼びなさいな。
ああ、あなた契約した式神の降ろし方を知らないのよね」
「それ聞きに来たんだよ。でも、あいつ今怪我してるんだ。
まだ降ろしたりしない方がいいんじゃねぇかな」
あら優しいのねぇ、と魔女は何だかいけすかない微笑みを浮かべつつ、俺に降霊術を教えた。
一度契約した式神の降霊術は、降憑術をかなり簡略化したものだ。これなら俺でも出来る。
「天に戻れたなら、降りることも出来るわよ。降ろしなさいよ。
そしたら、あたしがその子の怪我、治してあげるわ」
「治せるのか?ならその術俺に教えろよ」
「あら、それは無理よ。この治癒術は式神だけでなく、霊全般に通用する難しいものだもの。
あたししか使えないわ。あたしの作った術だしね」
俺の使うこの斬魔刀も、魔女が術をかけて作ったものなのである。
この世で一本きりの。魔女は、特異な存在なのだ。
「あなたでも、簡単に出来る治癒術があるのだけれどね。力技系のあなたにぴったり」
「そういや、ファイも何か言ってやがったな。そりゃ何なんだよ」
「さあねぇ?まあ、普通はやらないからね。やめておきなさいな」
そう言って魔女は妖しく笑った。
「ほら、あなたの式神を呼んでみて。まず竜はないわよ、本当に」
言わないと決めたらいくら要求しても言う奴ではない。
俺は諦めて、縁側から庭に降りた。
昨日の、月夜の竜をここへ。
ーいやに緊張する。
本当に、あの美しいものは、呼べば降りて来るのだろうか。
今となっては、やはり昨日のことは全て幻だった気がする。現実感がない。
この世のものでないような、美しい風景。恐ろしいほど綺麗な、精霊。
一度息を吸って、印を結ぶ。
涼やかな風が吹き降ろし、硝子の鈴のような音が響いた。
見上げると、
澄み渡る青空の向こうから、銀色の竜が舞い降りる。
「ぅわ・・」
蒼に銀。余りに荘厳な。
月の下の竜は、仄かに発光し幻のような美しさだった。
日の光の下で見ると、その銀の鱗一枚一枚が、まるで銀細工のような美しさであることが分かった。
自分で呼んでおいて、思わず絶句してしまう。
「あきれた・・本当に、銀竜じゃないの・・」
ちょいちょいと縁側に膝を付いて出てきた魔女は、空を仰いで、驚いた顔を見せた。
魔女の驚いた顔は、初めて見た。
そんなに、おかしいことなのだろうか。
銀竜はくるりと回転し、見る間に人の姿に形を変えた。
ふわりと俺の横に降り立つ。
「なぁに?」
微笑んで、ファイは俺の瞳を見た。
竜と同じく。
月光の元の、夢を見ているような美しさとは違い、日の光の下の彼は。
透ける肌、磨き上げた蒼宝玉の虹彩、金を梳いた髪。
人間ではないような、整った顔をしていた。知らずと息を呑むほどの。
ー人間じゃ、ないのか・・。
「ずるいわ、あたしの百体に匹敵するじゃないの。
箔を持てとは言ったけれど、こんなものを持つなんて・・これはやりすぎよ・・」
魔女は、俺とファイを見比べてため息をついた。
「何の話だ?」
「いいえ、何でも」
「ご主人様、こちらの方はー?」
ファイは、輝く髪をさらりと揺らして、小首を傾けた。そんな仕草に、いちいちどきまぎしてしまう。
「俺の師匠だ。通称魔女」
「お師匠様ですかー。魔女さん、こんにちはー」
「こんにちは」
縁側の淵まで出た魔女は、花紅色の爪でファイを手招きした。
「?何ですかー?」
式神は窺うように俺をちょっと振り仰いでから、魔女に歩み寄った。
ついと魔女がファイの手を取ると、淡い虹色の光がファイの体を包みこんだ。
「え?怪我が・・治ってる・・」
痛みが消えたことに気がついたのだろう、ファイは消えた傷を確認し、驚きの声を上げた。
「あたしが無理に呼んで貰ったのよ。せめて治させて頂戴」
「ありがとう、ございますー」
魔女は、いいのよ、とその手を離し、ファイをつくづくといった風に眺めた。
「思い切ったこと、したわねえ」
精霊は、黙って微笑んでいる。
「なぁ、さっきから何の話だよ」
「いいえ、・・運命って、面白いわね」
魔女はそう言って、部屋の奥に戻り、紅の着物を散らして座った。
「あなた達にはきっとこれから、大きな苦難が訪れるわよ」
「何イ?会ったそばからおまえ、不吉なこと言ってんじゃねえよ!」
俺が噛み付くと、魔女はふふ、と意味ありげに笑った。
「でもきっと大丈夫よ」
ー運命が、導いたのだから。
魔女はそう言って、瞳を閉じた。
運命の。
そう、魔女は言う。
もし、ファイと出会ったのが運命であるならば。
例え魔女が言う通り、これから大きな苦難が訪れるのだとしても。
それが、どれほどつらく苦しいものであったとしても。
全て乗越えてみせようと思う。
俺とおまえは、出会ってしまったのだから。
俯いているファイに視線をやると、ファイは顔を上げ、
俺を見て、微笑んだ。
運命が導くならば、
僕らは出会い、恋をする。
時系列が逆で申し訳ないんですが、お坊さんの黒鋼と精霊のファイが出会った時のお話でした。
会った当初はまだ、ファイはちゃんと『ご主人様』と呼んでいて、黒鋼も綺麗なファイに
ちょっとどぎまぎしているという初々しい二人。
続きは、またそのうちに・・。