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翼のない天使C


いつの間にか、窓の外が白んできた。
ずっと、辺りは静かだった。
ファイはー
何かあったら、呼びに来るはずだから。
きっと、大丈夫。自分にそう言い聞かせた。

「黒鋼君」
ドアを開けたドクターの声は妙に静かで、病状はどうなのか、判断がつかなかった。
「・・ファイ、は・・」
「会っていいわ」
駆け出そうとした俺の襟を、ドクターが掴んだ。
「あなた、昨夜から何も食べてないでしょう。そんな青い顔してあの子に会っちゃ駄目よ」
そう言って、おにぎりが二つ乗った皿を差し出した。
「あ・・、ありがとう」
そういえばそうだ。お腹はすいていなかったけれど、確かに俺まで顔色が悪かったら、
ファイに心配させてしまうかもしれない。おにぎりを腹におさめながら、ドクターを見た。
会ってもいいということは、ファイの病状は安定したということだろう。
なのに、何かを迷っているような感じがした。
病状がよくなくても、どうしても会いたいと、ファイが言ったのかもしれない。
「なあ、今日はどれくらい会っていい?」
「ファイ君が大丈夫なうちは、いつまででもいいわ」
「本当に?」


「ファイ!」
服を着替えて、病室の厚いドアを開けた。

ファイは、俺を見てふわりと微笑んだ。

柔らかな光の中の君は、やっぱり天使みたいで。
点滴も、呼吸器も付けておらず、体を起こしている。
そんな姿を見たのは、本当に久しぶりで。
「黒たん・・」
その囁くような声も、その蒼い瞳も、微笑みも。
何だか泣けそうになった。
「ファイ・・」
「ふふ、どうしたの?黒たんたら。泣きそうな顔してる」
「・・よかった・・俺・・。
昨日で最後かと・・もう、会えないんじゃねぇかって・・」
「今日はすごく体調がいいんだー。顔色もいいでしょ」


よく、分からなかった。
ファイは、良くなっているのか、悪くなっているのか。
あんまりファイが穏やかな顔をしているので、それが逆に、
こわかった。


君は、天使によく似ている。
今にも。
初めて会ったあの日のように、窓を開けて。

今度こそ、翼が生えて。

傍にいるのに、こわくなった。
俺は君に、何かをしてあげられた?

これが最後だなんて、思わないけれど。
でも。
ファイの瞳を見た。綺麗な蒼。宝石のように、綺麗な。


「ファイ、何か欲しいもの、ないか?やりたいこと、ないか?」
ずっと、ファイに持って欲しかったもの。
夢をー・・きっと元気になれるって。

でもファイは瞳を閉じて、静かに首を横に振った。

「なぁ・・何か・・」
ずっと我慢していた涙が、零れた。
「生きたいって・・思ってくれよ・・」
涙が次から次から溢れ出して、嗚咽でうまく話せない。
「俺・・お前に・・何も、してあげられ・・・っ」
悔しくて、悲しくて、握り締めた拳に、ふわりと。

ほんの僅かな、ぬくもりを感じた。


目を開けると、ファイが俺の手を握っていた。


触れちゃいけないのに。
「・・て・・・」
ファイは、入らない力を込めて、俺の手を握り締めた。
呼吸が出来ない。
握れば砕けてしまいそうな白く細い指が、俺の手を握っていた。

「オレが今、どれだけ幸せか分かる・・?」

うっすら潤んだ瞳は泉より空より綺麗で、そこには俺だけが映し出されていた。
「前に・・欲しいものはないかって、聞かれた時ね。ないって言ったけど・・本当は一つあったの。
オレ、昔からずっと、自分が生まれた意味なんてないって思ってた・・」

その瞳が、ゆっくりと瞬く。
「もし・・誰かがオレのことを愛してくれて・・オレもその人を愛したら・・。
その時初めて『生きたい』って思えるんじゃないかって。
そう思えたら、生まれてきた意味が、あったって事じゃないかなって・・思ってて」
ファイの細い指が、震えている。長い睫毛がもう一度伏せられて、涙が一筋零れた。
「オレ・・今すごく生きたいの。黒たんと一緒にいたい」
囁き声でなく、ファイのしっかりした声を、その時初めて聞いた。
「君が連れてってくれるって言った泉にもすごく行きたいし、
君とずっと一緒に生きてたい。
そう思えたから・・だからもう、欲しいものは手に入ったの。本当に今は、何もないの・・」
ファイはそう言って、ぽたぽたと涙を零した。
「ファイ・・」
生きたいと、一緒にいたいと。
ファイの小さな細い手を自分の両手で包み、強く握り返した。


ならきっと、生きていけるだろう?


「でもね・・もう、分かっているでしょう?今日で、お別れなんだー」

「・・え・・?」
一瞬、意味が分からなかった。
「昨日、ドクターに聞かれたの。
あと一週間この部屋で過ごすのと、あと一日黒たんと一緒に過ごすの、どっちがいいかって。
黒たんと一緒にいたいって言ったら、そうよね、て。
多分、オレの残り時間はあと一日・・。だけど、一日一緒にいられるね」



あと一日だって?
俺の掌の中には、華奢な指から感じる、微かなぬくもり。
ここにいるのに。

蒼い瞳も、金の髪も。君の声も、君の笑顔も、ここに。

明日には、消えるなんて。



「馬鹿なこと言うな!!」

分からなかった。
夢をー。


「死ぬわけねぇだろ。死にたく、ないなら・・」


ファイは、泉に、行きたいって。
生きたいと、願うなら。
願うなら。
小さな白い手を、強く握り直した。


どうしたら。
どうしたら。


「・・ファイ、外へ行こう・・」
「え?」

ファイは目を見開いて、瞬いた。

「今から外行く。おまえに見せたいものがいっぱいあんだ。
生きていたいなら、生きていける。外に出よう、もっともっと生きたくなるから」
自分に言い聞かせている気がしたけれど。
ここにいても、何も変わらない。
外に出れば、何か変わるかもしれない。
俺がおまえを助けるって、決めたから。
ファイが瞬くと、溜まっていた涙がはたりと落ちた。
「な・・?ど・うやって・・?オレもう・・立てないんだ・・」
「俺が連れてく」
戸惑うファイに手を回し持ち上げたけれど、その感覚はなかった。
重さが、ない。
羽根が生えているように。
天使みたいに。

蒼い瞳が、俺を見上げた。
「あ、黒たん顔まっかー・・」
「うるせぇ」
顔が熱い。ドキドキする。
どうなるか分からないけれど、確かなことは一つ。
俺は、今腕の中にいるこいつが、誰より、何より大切だということ。
「そういうおまえだって赤・・・あっ熱か?!大丈夫か!」
「違うよー・・。赤いのはね、黒りんのことが、好きだからだよ」
そう微笑んで、嬉しそうにオレに擦り寄った。

なくしたくない。
なくしたくない。

「いくぞ、ドアから強行突破だ」
勢い良くドアを蹴り開けたその先に。
腕を組んだドクターがいた。
「あ」
じろりと睨まれる。でも俺はー
「見逃してくれっ」
脇をすり抜けようと駆け出したところで、襟首をつかまれた。
「まだ秋口だけれど、冷え込むわ。これを掛けて行きなさい」
そう言って、ブランケットをふわりとファイに掛けた。
「え?」
ドクターは屈んで、ファイに柔らかそうな靴を履かせ、俺たちを見上げた。
「・・ファイ君。今まで行きたかった所、どこへでも行ってきなさい。
今まで出来なかったこと、何でもしてきなさいね」
ドクターは微笑んでいたけれど、その目にはみるみる涙が溜まっていった。
「黒鋼君、この子を頼んだわよ。
・・強めのね、薬を飲んでもらったから・・今日一日は、多少自由が利くわ。
抗体のことも、もう・・何も、気にしなくていいから」
立ち上がり、ファイの頭をしばらく撫でていたドクターの瞳から、だんだん涙が溢れ出してきた。

「ファイ君・・ごめんね。これが、私の精一杯なの・・」
「ドクター・・ありがとう」



・・本当なのか?
今日一日というのは、本当の。
本当に、ファイは消えてしまう・・

その思いを振り切るように、首を振った。
生きたいんだ。
傍にいたいんだ。
だから、ずっと一緒にいられると、信じてる。

「今日一日黒たんと一緒にいられるんだって嬉しかったけど、まさか外に出られるなんてね。
ドクターはこうなること、分かってたみたい」
ファイは嬉しそうに微笑んだ。
「いろんなとこ、連れてってね」

あんまり幸せそうに微笑むので。
あんまり幸せそうに微笑むから。
息が詰まった。

君に見せたいものがある。
最後だから?
違う、これからも一緒にいたいから。
だからー

君に、見せたいんだ。






まだ続くんですよ!(のびのび・・)
  
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