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わんこ物語4

『犬っころには、どう足掻いたって無理だもんなぁ!』
いけ好かない男の言葉が脳裏に蘇り、歯噛みする。
(あの野郎・・ここで撃退したって、また性懲りもなく外でファイにちょっかい掛けるに違いねぇ)
ライバルを退治したものの、問題を根本から解決した訳ではない。家の外は、外出禁止の俺には干渉出来ない領域だ。
「はーい、黒わん!おやつ召し上がれ〜v」
しかしいきり立った感情など、優しい微笑みに簡単に蕩けて消えてしまう。
獣は所詮獣。でも今目の前にファイがいて、彼を独り占めしているのはこの俺なのだから。
目の前に置かれたササミ飯をあっという間に平らげ皿まで舐めて顔を上げると、嬉しそうに細められた蒼と
視線が合った。ファイは俺が手製の飯を食う姿を見るのが好きらしく、こうしていつも食事風景を見守っていて
くれるのだ。ファイの飯は美味くて、幸せだ。そして幸せそうなファイの表情は、俺の心をもっと幸せにさせる。
(犬だってな・・こいつが好きだって気持ちだけは、誰にも負けねぇんだ)
あの男だけじゃない、他のどの人間にだって。

すっかり気持ちも落ち着いたので、中断された至福のひと時を再開すべくリビングに戻って寝そべった。
いつも通り腹を枕に横たわったファイの唇から、ふと笑みが零れる。
「ねぇ?黒わんってホントに、ヤキモチでお客さんに吠えてるのー?」
突然痛い所を突かれ、思わず喉奥で唸った。
あんなストーカー紛いの男に指摘されたのは面白くないが・・・・・・これは確かにヤキモチだろう。
人間だったら、ファイと言葉を交わし学校へ付いて行って、もっとたくさんの事をしてあげられる。
ただの犬っころに出来る事などごく僅かで、それが悔しくて仕方がないのだ。
せめてと愛しいご主人様を包み込むように身体を丸め、小さく柔らかな唇をぺろりと舐めた。
くすぐったいと笑う声は銀の鈴を転がすように高く澄んでいて、自分の地鳴りのような吠え声とは大違いだ。
真っ白な肌に金細工のような猫毛も、デカい図体を真っ黒な硬い毛で覆われた自分とは全く正反対。
小さく華奢な身体はちょっとしたことで怪我をしてしまうだろうから、帰宅を迎える際は全力で飛び付きたい
衝動をこれでも精一杯抑えているのだ。身体だけでなくその心も、小さな刺ですぐ傷付いてしまう繊細なご主人様。
そんな彼を、全てのものから守りたいのに。

俺の気持ちを知ってか知らずか、毛皮にもふもふと頬擦りしていたファイから小さな囁きが聞こえた。
「もしそうだったら、カワイイな・・。でもね、ヤキモチなんて焼かなくたって大丈夫だよ。
オレは黒わんが、この世で一番大好きなんだからー・・」
白く細い指が、宝物に触れるような繊細な動作で漆黒の毛並みを梳いてくれる。綺麗な蒼を間近で覗き込むと、
静かに微笑みかけてくれた。
(この世で・・一番・・・大好き・・?)
本当だろうか。
俺の知らない場所でたくさんの人間と関わっているだろうに、本当に飼い犬なんかを一番愛しく思ってくれているの
だろうか。
(本当に・・一番だと思ってくれているなら・・・)
死ぬほど幸せなのに。
その言葉を胸の中で反復し、瞳を閉じ寄り添うご主人様の長い睫毛を見遣った。
(本当かどうか・・試してみようか)

「・・わっ?!」
何の前触れもなく身を起こすと、ファイはカーペットにころりと転がる。仰天した声を上げたご主人様の両脇に
前脚をついて、喉を震わせ獰猛に呻ってみせた。湿った鼻先で白い首筋を擦り、鋭い牙を剥き薄い皮膚に
押し当てる。ほんの少し力を入れれば、こんな細い首は簡単に咬み切ることが出来るだろう。
常人なら、真っ青になって竦む状況だ。しかしファイは全く恐がる素振りを見せず、それどころか鼻息が
くすぐったいとけらけら笑い出した。その様子に安心して、すいと頭を戻す。
やはりファイは俺を心の底から信頼し、愛してくれているのだ。
「黒わんったら、いきなりどしたのー?甘えたいのかなー。ほーらおいで、いいコいいコvvv」
仰向けに寝転んだまま両腕を広げるファイの上に屈むと、太い首を優しく抱き締めてくれる。
尻尾を揺らして滑らかな頬を舐めると、くすぐったいってばと笑いながら鼻先にキスをくれた。
嬉しくて、あたたかくて、幸せで。
この世で一番愛しい人の腕の中で、願うことは。

大好きなご主人様を、両腕で抱き締め返したい。
犬の姿では、抱き締められるばかりで抱き締め返す事は出来ないから。
好きだ。愛してる。ずっとずっと、おまえだけを守り続けたい。
大きな大きな想いでこの胸は張り裂けそうなのに、その欠片しか伝えられない。
たった一度だけでもいい。
ファイと同じ、人間になれたらと願う。
もし願いが叶ったなら、力いっぱい彼を抱き締めて、そして言葉で伝えたい。
(愛してる)
この胸の、一番大切な気持ちを。
俺がどれだけおまえを愛しているか、伝えられたらどんなにーーーーーー

「ぎやああああああああああああーーーーーーーッッッッッ!?!?!?!?!」
「ッ?!」

ファイが突然上げたこの世の終わりのような絶叫に驚いて、心臓が止まりそうになった。
しかも声と同時に優しく抱き締めてくれていた腕は引っ込み、部屋の隅までものすごい速さで逃げ去ってしまったのだ。
壁にしがみ付きこちらへ向けられる瞳は、まるでこの世のものでないモノを見るかのような色。
ファイの恐れ戦いた悲鳴を聞いたのも、恐怖に染まった瞳を見たのも初めての体験で。
どうしたんだろう、まさか噛み殺されるとでも思ったのだろうか。
やはりこんな獣を、信じてなどくれないのだろうか。俺のような獣が一番だなんて、やはりただの冗談で。
「ファイ・・・俺が、恐いのか・・・?」
問い掛けると大きな瞳が零れ落ちるほど見開かれ、震える唇はハクハクとただ開閉するばかり。
たった一人愛するご主人様に拒否されるショックは、まるで足元の地面が全て崩れ落ちたようだ。

(ん・・・・まてよ・・・・・?)

『ファイ、俺が恐いのか?』
そういえば、さっき俺の気持ちを代弁したやたら低い声は誰のものだろうか。
湧いた疑問は、強い違和感と変わってゆく。明らかに身体の感覚がおかしくて、すぐさま視線を落とすと。
「・・・・・うぬおおおおおおおおおおッッッッッッ?!?!?!」
「くくく・・・・・っっっ黒わんがーーーー!!!!人間になっちゃったよおーーーっっっ!!!!!」
視界に映った自分の身体は、巨大な獣ではなく紛れもない人の形をしていたのだ。
身体を覆う漆黒の毛並みは消え失せ、随分浅黒く硬そうであるが人間の皮膚に変わっている。
手のひらには5本の長い指があり、ファイよりも二周りほど大きい身体は黒の人間の衣服まで着せられていた。
これでは絶叫して逃げられるのも当然だ、俺だって我が事ながら同じく絶叫して逃げ出したいくらいなのだから。
「なな・・っっ!!・・・ッ・・・?!?!」
「ね、ねぇ・・・?!・・黒、わん・・・なんだよ、ね・・?」
俺は俺だ、しかしこれはどうしたことだ。確かに人になりたいと願ってはいたが、そんな願いが叶いっこないことは
獣の俺にだって分かっている。こんな都合のいい、夢のような出来事が起こるはずがない。
恐る恐る近付いて来たファイは、何度も瞬きしながら俺を見上げた。立ち上がっている俺より、頭二つ分小さい。
いつもは見上げるばかりだけれど、見下ろす角度からのご主人様もなんて綺麗なのだろうと
この非常時に見惚れてしまう。獣の目を通すより、金の長い睫毛一本一本の艶がクリアに見える。
透き通る双眸は、表面で光の欠片を弾くようだ。きめ細かなミルク色の肌、桜色のプルンと張りのある唇。
見惚れていた隙に、白い両手がゆっくりと俺の頬を包んだ。
毛並みに覆われていない頬は、直接ファイの手のひらを感じる。ああ、なんて甘い感触なんだ。
滑らかな指は輪郭を辿るように上へと移動して行き、そして。
「・・いだッ?!」
「痛いー?この耳・・・本物なんだー・・・」
頭の上の2箇所を引っ張ったご主人様は、燻るような睫毛を瞬かせて小首を傾げた。
まさかと自分でも頭を触ってみると、人間の耳もあるようなのに犬の耳も残っているようだ。よくよく身体を
確認すると、ふさふさと真っ黒な尻尾も残っていた。人になったにしても、かなり中途半端な状態らしい。
「前から珍しいわんこだとは思ってたけどー、まさかここまで特殊だとは・・。
ねぇどういうこと、黒わんっ!きみは何者なの?突然変異?超能力わんこ?まさか魔法使いとか?!」
「し、知るかよ・・俺だって何が何だか・・」
夢だろうと思うが、思い切り引っ張られた犬耳はまだ少し痛む。実際問題、これは夢ではない。
余りに不可思議な事態に眉間に皺を寄せると、ファイがこともあろうか腹を抱えて笑い出した。
「おっかしーいっ!黒わんが人間になったーっ!!しかも耳としっぽ付き!!すっごーく可愛いよ黒わんvvvv」
「お・おかしいってなぁ!笑ってる場合なのか?!一体どうなってんだよこれは?!」
「いくら考えたって理由なんて分かんないでしょ、こんな面白い事件!かなりビックリしたけどー、
人になれるなんてスゴイ特技だと思う!ねっもう、思い切ってこの状況を楽しんじゃおうよっ♪」
「んな能天気な・・・」
しかし確かに、いくら考えた所でこの特殊すぎる状況の理由など解明出来るとは思えない。なら、ファイの提案も
一理ある気がしなくもないが。

というか、これは俺が望んでいた状況だ。しかし、こいつはどうだろう。飼い犬が突然人間になってしまっては
色々と困るだろう。そのうち追い出されやしないかと不安を感じていると、ファイはわーかった!とポンと手を打った。
「何が分かったんだ?」
「黒わんが人間になっちゃった理由、もしかしたらオレのせいかもー!あのね、もし黒わんが人間だったら
一緒にお出掛けしたり、おしゃべりしたり・・きっとすごく楽しいのになって、いつも思ってたから。
オレが願ったから叶ったのかな?魔法使いは黒わんじゃなくて、オレの方かもー!」
なぁんてねとペロと舌を出したファイに、心臓が跳ねる。ファイも、俺と同じことを願っていてくれたのか。
同じ願いを抱くなら、ひょっとしてファイも俺と同じ気持ちを抱いている可能性があるのではなかろうか。
「そーだ、黒わん♪いつもお客さんに吠えるのって、ヤキモチのせいなのー?」
「ちッ!!!違ぇよっっ!わ、悪い奴だったらいけないだろ?!俺は純粋に番犬としてー」
(・・・・あれ?)
俺は何を言っている。
現にヤキモチを焼いていたのに、何故違うなんて言っているんだ。
「何だぁ、やっぱ違うのかぁー!番犬としての責任感ってこと?黒わんは優秀なわんこだねぇ〜!」
「そうだ。万一悪い奴に押し入られたら、番犬としてのプライドに関わるからな」
違う、そんな理由じゃない。
おまえを愛しているから、他の誰にも取られたくないから吠えるんだ。
そうだ、奇跡のように願いが叶ったんだ。
今すぐ伝えなくては、この気持ちを。
「・・・・・お、俺は・・」

おまえをずっと守っていたい。
おまえを愛している。
言いたかった事は、山のようにあるのに。

なのに。
なのに、なのに、なのに。

(ななな・・・何でだッ!?!?)
泉のように澄み切った蒼、絹糸のような金色の髪が揺れる。大好きなご主人が、じっと俺を見上げている。
ミルク色の柔肌、華奢な身体。ちょっと手を伸ばせば、今すぐ抱き締められるのに。
そうだ、ファイを抱き締めることがずっとずっと夢だったはずなのに。
今なら、何度だって好きだと伝えられるはずなのに。
「んー?どしたのー、黒わん」
固まってしまった俺に向け、きょとんと小首を傾げる様も愛しくて堪らない、なのに。
なのに、なのに。

(・・・・・言えねぇ・・・ッッッ)

好きだ、たった3文字の言葉が、ずっと伝えたくて伝えられなかった言葉が、喉元まで出かかって言えないのだ。
言葉さえ伝えられないのに抱き締めることなど到底出来るはずもなく、この腕はファイへと伸ばせない。
「そうだよねぇー」
「・・・・え・・?」
ひょいと背伸びをしたご主人様は、俺の頭を優しく撫でた。何がそうだよねなのか、どうして頭を撫でるのか
分からなくて戸惑う俺に、にっこりと微笑みかける。
「オレもビックリしたけど、一番ビックリしてるのは黒わんだよね。大丈夫、安心して!
きみの優しい心も・・燃えるような紅い瞳も、何も変わってない。
どんな姿だって、黒わんだったらオレは何でもいいの。黒わんはオレの、大切なわんこなんだから・・」
(大切な・・わんこ・・・)
こんな姿でも優しく受け入れてくれる手のひらは、飼い犬を宥める時と同じ仕草だ。
・・・・・・・・やっぱり好きだなんて、伝えない方がいいのかもしれない。
俺がどんなに想っていても、やはりファイは俺のことを飼い犬としか見ていないのだろうから。
「なぁ、俺・・このままここにいても・・いいか?」
「もちろん、当たり前でしょーv嬉しいな、これからは一緒にお散歩も買い物も行けるね!大学の構内も
案内してあげるー!一緒に電車に乗ったり旅行もいけるし、これまでよりもっと一緒にいられるねー!!」

嬉しそうなファイを見て、愛しさばかりが募る。
何故か伝えられない気持ち、何故か伸ばせない腕。
でもこれでいいんだ、下手に気持ちを伝えても困らせるだけだろう。
期せずして願いが叶い、いつでも傍でファイを守ってやれるようになったのだからそれでいいじゃないか。
何故か愛を語れないこの口は、ファイを奪いに来る敵を威嚇する為に使えばいい。
何故か抱き締めることが出来ないこの腕は、ファイを脅かす敵を蹴散らす為に使えばいいのだ。
そう決意して、ぎゅっと拳を握り締めた。
「うーん、でも・・黒わんが人間になっちゃって、ちょっとだけ困ったことがあるかなぁー」
「何?!」
じっと俺の顔を見ていたファイがふいに視線を揺らせ、思わず慌ててしまう。
いくらファイがどんな姿でもいいと言ってくれても、犬が人になっては色々と都合が悪いに決まっている。
やはり追い出されるかと動揺したが、ファイはまたペロと悪戯っぽく舌を出した。
「耳と尻尾が可愛くて気付かなかったけどー・・よく見たら黒わんってば、すごーくカッコいいね。
ちょっと照れちゃうなー・・。オレってばヘンなの、黒わんはオレの可愛いワンコなのにねー」
頬を染めたファイが、上目遣いに微笑んだ。




別に好きだと言えない魔法が掛けられているとかいうワケではなく・・
単にへたれのせいで好きと言えないわんこなのです・・!
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