魔物退治のお坊さん・出会編<上>
運命が導くならば、
僕らは出会い、恋をする。
「それ程の力があるのに式神を持たない術師なんて、あなた位よ」
女はそう言って、だるそうに肩肘をついた。
流れる黒髪。墜ちそうな闇色の着物には、純白の百合が咲いている。
この女がいるだけで、室内はまるで、現実とは違う異空間のようだ。
魔女と呼ばれているその人は、俺の呪術の師匠である。
ちなみに、気だるげなのは二日酔いの為らしい。
「あなたの段階なら、五・六体は式神憑けてるのが普通よ。持ったらいいじゃない。箔も付くわよ」
噂によると、この魔女は百体の式神を従えているという。見たことはないのだが。
「俺は今のままで十分だ。つるむのは好きじゃねぇ」
眉を顰めてみせると、つるむなんてものじゃないわよ、と魔女は面白そうに笑った。
「もっとも、あなたは式神の降憑術なんて出来ないかしらね」
そう言って肘掛の裏から一本の巻物を抜き出すと、一端を白い指で抑え床にすいと転がした。
広がった巻物の中は透かしの入った和紙で、そこには流麗な文字で呪文が連なっているようだ。
「これは、降憑術の呪文。巻物一本分、まず暗誦しなさい。これが基本よ」
「あぁ、無理だ無理」
やりたくない。多分、途中で飽きる。
「ろくに見もしないでよく言うわねぇ・・そうね、そもそもあなたは力技系だものね。
呪文を使わずに刀で魔物を倒すことが出来る術師なんて、他にいないわ」
鳶色の巻紙を摘み上げ、魔女は俺に向けて妖艶に微笑んだ。
「・・力技で式神を降ろす方法もあるのよ?」
「へえ。どんなだ」
「難しいわよ。まず、精霊と地上で出会わなければならないわ」
精霊というものは、普段は天界に住まっているらしい。地に降りる時は、姿を消している。
術によって具現化することができるが、どこにいるとも知れない精霊を具現化するなど不可能である。
「会えるわけねえだろ」
「有り得ないわね。しかも、それはある特殊な状況下でなければならない」
「どう考えても無理じゃねえか」
「そう、無理なのよ」
魔女はにっこり微笑んだ。
「運命が、導かないと」
ー運命?
何故そんな事を俺に、と問いかけようとしたところで、魔女が手を打った。
「はい、報告ご苦労様。今日はもう帰っていいわ」
ひらひらと手を振る魔女は、もう俺と話をする気はないらしい。
この女が、孤児として寺で修行していた俺を引き取ったのが、10年前。
長い付き合いになるのだが、年を取った印象もないし、まるきり分からない人間である。
・・人間じゃないのかもしれない。
女の元を出て自分の寺を持つようになってからは、近況報告を月に一度している。
「じゃあ一月後に。帰る」
ため息をついて立ち上がると、魔女はついでのように言った。
「近いうちに、またここに来ることになるわよ。黒鋼」
魔女の屋敷から自分の寺まで、馬を走らせても一日半はかかる。
故に、魔女の元に行くには泊り掛けだ。
日も暮れてきて、差し掛かった村で俺は宿を借りることにした。
普段は法衣などいい加減に着ているのだが、どこかで宿を借りるつもりの時は、きちんとした正装で行く
ことにしている。坊主であると分かれば、大抵どこでも宿を提供してくれるのものだ。
一番大きな家の扉を叩く。
大きな家といっても、大した大きさではない。小さな、貧しい村だ。
叩いたものの、返事がなかった。
ー何かが、おかしい。
暗くなったてきたとはいえ、村内には出歩いている者が一人もいない。
夕闇に飲まれていてよくは見えないが、周囲を見回すと、村全体に得体の知れない違和感を感じた。
「宿を借りてぇんだが」
声を掛けてみると、しばらくして引き戸が小さく開いた。
顔を覗かせたのは老人で、俺を見るなりこれはお坊様申し訳ありません、と声を上げ、
戸はすぐに大きく開けられた。
家の中には何十人も村人が集まっているのが見えた。どうやらここで今、村会合が開かれているらしい。
改めて宿を頼むと、老人はすぐに快諾し、その代わりどうか話を聞いて下さいませ、と
俺に座布団を勧めた。
話によるとこの村は今、魔物らしきものに悩まされているらしい。
村の裏には桜山があり、例年今頃、山全体それは美しい薄紅色に染まるという。
しかし、今年は枯れ木のまま、芽吹きさえしない。
裏山ほどではないが、村内も作物や草花の芽吹きが少ない。
原因ははっきりしないが、このような異常な状況は、やはり魔物の仕業に違いないと思われる。
多分、桜山に魔物が巣食っているのではないか。
今行われていた会合で、そういう結論に達したらしい。
改めて外に出て回りの木々などをよく見てみると、確かに春になっているのに芽吹いていないものが
多い。さっき感じた違和感はそれだったのだ。
最近は皆魔物の存在を恐がり、外を出歩くのも憚られているということだ。
これは霊験あらたかなお坊様を呼び、魔物を討伐して頂くしかない、と話していた所へ
俺が尋ねて来たという訳だ。
「きっと運命のお導きです。どうかお坊様、桜山に巣食う魔物を退治して頂けないでしょうか」
ー運命が導かないと。
確か魔女がさっき、そんなことを言っていた。
作物が芽吹かないのでは、この貧しい村はますます貧しくなり、餓えに苦しむに違いない。
宿も貸してもらうのだし、仕方ないか。斬魔刀も、常に携帯している。
承諾してやると、集まっていた村人達は喜び、食物もそうないだろうのに精一杯のもてなしをしてくれた。
腹が減っていたので出されたものを全て食べてしまったこともあり、これはもうどうしても退治するしかない。
今まで多くの魔物と戦ってきたが、手強いと言われているものが相手でも、
倒すのにそう苦労したことはない。
今回もさっさと征伐してしまおうと、俺は裏山へ出向いた。
桜山と呼ばれるそれは、近づくと確かに、この季節にも拘わらず山全体が枯れ木に覆われていた。
物音一つしない。生き物の気配がまるでないのだ。
この山に住んでいた動物や虫は、全て魔物の力により死んでしまったのだろう。
推測するに、魔物はこの山全体の生気を吸い取り、力を蓄えているのだ。
小山とはいえ、山一つである。相当な力を持った魔物でなければ、成し得ない事だ。
それに更に力を蓄えているとなれば・・かなり大規模な、悪しき事を企んでいるのだろう。
ーひょっとしたら、俺の手に負えないくらいの魔物かもしれない。
面白えじゃねぇか、と独り言ちて、死に包まれる山へと足を踏み入れた。
今夜は満月。
静かな月明かりの中、沈黙している木々の間を縫っていると、まるで時が止まっているように見えた。
具現化の術を行えば、静かに見えるこの山が本当は今どのような状況にあるのか、そしてどんな魔物が
巣食っているのかが目に見えるようになる。
出て来い。
一つ息を吸い込み、具現化の印を結んだ。
「っ!」
突然、耳を劈く音と共に、呼吸が出来ないほどの強風に体を叩きつけられた。一歩足が取られる。
山全体が渦巻く暗雲に覆われ、地の底から響くような雷鳴が轟く。
密度の濃い暗闇を、眼を焼くような稲光が照らした。
山は、悲鳴を上げていた。
力が。
体が振動するほどの、凄まじく強力な、禍禍しい魔力が降り注ぐ。
思わず身震いをした。
ここまでの魔物は、初めてだ。格が違う。
ー俺の手に負えるか?
上空から感じる気配に、刀を構え天を仰いだ。
轟きの合間に、空間を裂くような咆哮が聞こえた。一瞬、暗雲の中上空高く、何かの一部が垣間見えた。
闇色の鱗。あれはー大蛇か?どす黒い巨大な蛇が闇の中うねっているようだ。あれが、ここに巣食う魔物だ。
ー一体じゃねぇ。
もう一つ、気配を感じた。しかしそれは、禍禍しさなど欠片もない、清浄な・・何だ?
その時、二つの気配が縺れるようになって、黒雲の下へ流れ出た。
目映い稲光が照らし出す。
ー銀色の竜
神々しいまでの月色の竜が、闇色の大蛇を封じ込めるように絡み付いていた。
その凄まじい光景に圧倒され、思わず息を呑んだ。
絶え間なく閃光を放つ稲妻に、二体の偉大なものが浮かび上がり、また消える。
大蛇はもう一度うめくように嘶き、竜の輝く鱗に牙を立てた。
しかし、勝負はすでについていた。
大蛇は尾の先から徐々に形を失い、闇に溶けていった。
最後に邪悪な気を放つ頭部が、断末魔を上げながら砂のように崩れ、消えてゆきー
消滅すると同時に、ぴたりと。
殴りつけるような風がやみ、暗雲が、まるで波が引くかのように消えていった。
夜空に星が燦燦と瞬きだし、山を、月の光が静かに照らす。
そしてー今までの嵐が夢だったかのように。
再び、山は静寂に包まれた。
知らずと止めていた息を、吐く。
具現化させた世界は全て、消え去ったのだが。一つだけ、残った。
天空に。
晧晧と輝く満月を背景に、銀の光を放つ竜が、まるで幻のように浮いていた。
嵐が夢?それとも、・・今が、夢だろうか。
幽かに、パキリと不思議な音が聞こえた。
その音は共鳴し、次第に大きく、辺り一面に響き渡った。
木々に目を移し、それが何の音なのかが分かった。
沈黙していた桜が、芽吹いている。
静寂の中、無数の桜の木々が一斉に芽吹きだしたのだ。この響きは、その極僅かな音の共鳴だ。
魔物から、開放されたからだ。
目の前の桜の一枝。
硬い蕾がゆっくりと膨らむ。蕾は、さわさわと音を立てて、薄紅色に花開いた。
月の光を反射して、まるで発光しているような、その枝。
周りを見渡すと、
・・山全体が、薄紅色に輝いていた。
無数の薄紅の光の粒が、空へと、登るような。
眩暈がするほどの美しい光景に、再び空を仰ぐと、
銀色の竜が頭を擡げー
竜はそのまま、地へと真っ逆さまに落ちていった。
銀の軌跡を残して、音もなく山の頂き辺りの桜林へと吸い込まれる。
「!」
俺は走り出していた。
あの竜は、巣食っていた魔物を消滅させた。しかしその戦いで傷付いてー。
頂き辺りまで来ると、辺り一面銀色の光に包まれていた。
光の中心、桜の木々の合間から、地に倒れ付す竜の姿が垣間見えた。
銀の鱗、青白く光る角。硝子のような、長い爪。眩いほどの、銀色の竜。そんなものが、今、そこに。
動悸が、早まった。
近づこうと一歩足を踏み出したところで、
突然、目の前が白に染まった。
驚いて瞬き、しばらくして状況を理解した。
無数の桜の・・月の光を吸い込んだその花弁が、一斉に、舞い散ったのだ。
ひらひら、ひらひらと。気が遠くなるほどの数の花弁が、宙を舞っている。
一枚一枚が煌くようなその空間に一瞬時を忘れ、
ふと、竜が消えていることに気が付いた。
竜がいた、その場所に。
銀色の人間が倒れ伏していた。
いや、人間じゃない。こんなに光り輝く人間は、いない。
銀竜の、精霊だ。
さらに高鳴る鼓動を抑え、もう一歩、近付いた。
その時、精霊は細い腕を立て、ふわりと上体を起こした。
銀の髪がさらりと揺れ、銀の衣が流れる。体全体が、仄かに発光している。
竜人の瞳が、静かに開かれた。
銀の睫毛から覗いたのは、宝石のように煌く、蒼の瞳。
辺りが薄紅に染まるほどに一面に舞い散る、月の桜の花弁の中で、その銀色の精霊は、
恐ろしいほど美しかった。
その瞳は俺を捕らえ、精霊は、小さく形のいい唇を開いた。
「見たの?」
硝子を弾くような声。思わず、体が震えてしまいそうな。
「・・おまえ・・さっきの竜の精霊、か?」
竜人は返事をする代わりに静かに微笑み、すいと右の人差し指を俺に向けた。
指の先が、青白く光る。
その光を視界に入れたとたん、目の前がぐらりと歪んだ。
ーまずい。
歪みを振り切ってずかずかと歩み寄り、その華奢な指先を力任せに握ると、精霊は僅かに目を見開いた。
「記憶を消す気か?同じような術を使う奴と、戦ったことがある」
「・・触れないで」
顔は微笑んだままだったけれど。精霊のその声は、強張っていた。
掴んだ手を少し緩めて、ふと、自分の手に銀粉が付いたことに気がついた。
精霊が発光しているのは、体に銀粉を纏っていることによるようだ。
「・・な・・」
よく見ると、精霊の白く透けるような皮膚は、何箇所も大きく裂けていた。
傷口は銀に染まり、そこから同じ色の液体が流れ出ては、銀粉へと変化していく。
粉によって銀に見えた着物は薄青色で、多分その着物の下の皮膚も裂けている。
ーこの銀は、血?
銀粉が、精霊の血であるならば。
この精霊は今、血まみれだ。
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